グイノ神父の説教

 



2024年

B年

待降節の主日

四旬節の主日

   

待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日

四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日・受難の主日
聖木曜日・種の晩餐
聖金曜日・種の受難
聖土曜日・徹夜祭



      待降節第1主日   B年  2023123日   グイノ・ジェラール神父

       イザヤ63,16-1719 64,2-7  1コリント1,3-9   マルコ13,33-37

  待降節は私たちに待つことを促す典礼の時期です。イザヤは神の救いを期待する預言者です。彼は人間の不幸だけでなく、私たちのところへの神の到来についても目を開いている人です。「どうか、主よ、天を裂いて下ってください」と神の到来を早めるために彼は叫びます。

 聖パウロはコリント教会の信者たちに「ご自身を完全に現してくださるイエスの再臨を待ち望みながら、最後までしっかり支えるように」と勧めています。最後にイエスは弟子たちに、目覚めいること、忍耐強用心深い人であるように求められます。

 マルコの福音書の中でイエスは、見張りが必要な四つの時を挙げています。それは、夕方、真夜中、鶏の鳴く時と朝です。その時は特に眠気が私たちを圧倒する時だからです。私たちは日中には仕事や日常生活で目がランランと覚めていますから。皆さんもご存じでしょうが、ベネディクト会の修道士は夜起きて長時間祈りを捧げる習慣があります。彼らの祈りは世界に神の保護を保証します。私たちが眠っている間、人々が私たちのために祈ってくれていることを知るのは良いことです。彼らの例に倣い、この待降節の間、私たちも日中や寝る前に世界の救いを祈る時間を見つけるように努力しましょう。

 目覚めているということは、祈りにもっと入ることであり、自分の心の奥深くに浸透していることです。そういう理由で、クリスマスから、つまりイエスの誕生から私たちを隔てる期間について、私たちがもっと注意を払うよう待降節は求めています。私たちにとってそれは、現在から逃げずに未来を見据えて生きることです。今、生きているこの瞬間に、私たちのそばにいて、より個人的に出会う準備をしてくださる主を見つけることは肝心なことです。

  イエスは私たちに、「夕方も真夜中も、鶏が鳴くときも朝も」、つまり、信仰の暗闇の中を進んでいるとき、あるいは、困難な状況に置かれているとき、常に目覚めているようにと求めています。夜目覚めて、見張りをするということは、困難の中で待つことです。すべてが暗いときでも、希望を持ち続けること、逆風のときでも下手でも祈り続けることです。

 目覚めて、待ち続けることは、私たちの周りですべてが崩壊しそうになったときに、しがみついて立ち続けるために神から強い力を受け取ることです。しかし、私たちの祈りを導き、私たちの心を目覚めさせなければならないのは、恐れではなく神への信頼です。

 最後に目覚めていることは、祈りによって清められた眼差しで人々を見ることを意味します。また目覚めていることは、聖霊の力を受け、信頼して身近な人たちすべてに思いやりを持って生きることです。ご存じの通り、神はいつも思いがけないときに必ず来られます。ですから、私たちの信仰の忍耐と他の人たちへの気遣いを示して、神の訪れの予期せぬ事態に備えましょう。そういう訳で、目を覚まして、近いうちにイエスに会う喜びを心に浸透させましょう。アーメン。

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         待降節第2主日 B  20231210日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ40,1-59-11    2ペトロ 3,8-14    マルコ1,1-8

 「慰めよ、わたしの民を慰めよ、あなたたちの神は言われる。エルサレムの咎は償われた、罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」、と預言者イザヤは神の名によって宣言しました。しかし2倍になるこの報いはいったい何でしょうか。それは疑いもなくメシアの到来と彼がもたらす特徴のある慈しみです。したがって、救い主イエスが私たちの間に来るための道を私たちは急いで準備しなければならない、と預言者イザヤは願っています。

 備えるべき道のこのテーマは、洗礼者ヨハネによって取り上げられました。イエスが既にそこにいて、非常に近いとヨハネは指摘しています。聖マルコは福音書の冒頭で、メシアの到来は良い知らせであると同時に新たな始まりであると告げています。神の約束した慰めがついに実現されます。と言うのも、イエスは聖霊の慰めをもたらすからです(参照:ヨハネ1426)。

 待降節という時期は私たちに再出発の機会を与え、私たちの中に希望の炎と回心への願いを再燃させるチャンスを与えます。イエスは私たちに永遠の命の扉を開き、また、私たちを神の愛する息子や娘とするために来られます。しかし、私たちはただ座してイエスが来られるのを待っているわけにはいきません。私たちは自分自身と自分の心につながる道を準備しなければなりません。洗礼者聖ヨハネと使徒ペロが聖書を開いてその本文を黙想するよう私たちに勧めているのはこのためです。それらはまた、より深く長い祈りへの道を見つけ、最も恵まれない人々と分かち合い、そして何よりもクリスマス前に赦しの秘跡、つまり神の真の慰めを受けるように私たちを招いているのです。

 主の到来はまず私たちの心の準備をすることです。神の恵みがあれば、回心と聖化は私たちの手の届くところにあると、聖ペロは思い出させます。たとえ、彼らの行動が間違っていたとしても、他人を嘆いたり批判したりして時間を無駄にしないようにしましょう。私たちが本当にコントロールできる唯一の存在は私たち自身です。したがって、この待降節の時期に、あえて私たちに害を与えた人々に赦しを与えましょう。私たちの中で神の代わりになる考えや感情を心から拒否しましょう。私たちの弱さにもかかわらず、「全てを新たにするために、義の宿る新しい天と新しい地とを作る」ために来られるイエスと出会うように聖ペロのアドバイスに従いましょう。

 「新しい天と新しい地」は、魔法の杖を振るだけでは実現しません。神は私たちなしでは何もなさらず、私たちが協力することによってのみ行動することができます。私たち一人ひとりが、神のご意志によるこの新たな創造に参加しなければなりません。

 このことを理解するなら、私たちは希望に溢れた喜びに満ちた心をもって、来られる方に会いに出発するでしょう。神は私たちを心に抱いてくださるので(参照:イザヤ書40,11、この出会いが喜び、刷新、最大の祝いの泉となることを確信しましょう。 アーメン。

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       待降節第3主日 B 年  20231217日  グイノ・ジェラール神父

          イザヤ61,1-11     1テサロニケ 5,16-24     ヨハネ1, 6-28

 待降節の第3の日曜日は喜びの日曜日です。典礼の色はピンクです。この日曜日の喜びは聖霊の賜物です。それは豊かに溢れる救いと希望、解放、感謝と絶え間ない祈りの泉です。待降節の第3の日曜日は、ベツレヘムの飼い葉桶へと私たちを真っ直ぐ導く、輝く喜びの道を開いています。

 預言者イザヤはメシアの特徴を教えています。このメシアは聖霊の力に満たされて、私たちに良い知らせを告げ、癒し、解放してくださるために来られます。豪華に飾られた花嫁のように、また若い花婿のように、このメシアは正義と平和を持って私たちに喜びを伝えに来ます。預言者イザヤもこのメシアの名前を明らかにしました。彼の名前は「インマヌエル」「神は私たちと共におられます」(参照:イザヤ714)であり、私たちは彼が「イエス」(参照:ルカ131)とも呼ばれることを知っています(参照:ルカ131)、つまり「神は私たちを救います」。

 聖パウロは私たちに、かつて預言者たちが伝え知らせたことをしっかりと信じるように求めています。聖パウロは、神は常に彼らの声を通して語られたことを実現してくださると保証しています。また、平和の君であるイエスは私たちを希望で満たし、とがめのない完全な者とし、最終的には私たちを聖化してくださることも教えています。これを書くにあたり、聖パウロは預言者イザヤの第一朗読の言葉を正しく思い出させます。 「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださいました。」そういう訳で、聖パウロが私たちに、喜び、感謝し、絶え間なく祈るように勧めているのです。

 今日の福音書は、洗礼者ヨハネを紹介します。洗礼者ヨハネは光について証しするために来た非常に単純な人であると福音家の聖ヨハネは説明しています。洗礼者ヨハネ自身、自分は預言者ではなく、耳を傾ける人に自分の声を伝える証人に過ぎないと述べています。だからこそ、彼は町や村の喧騒から離れ、砂漠の静寂の中で叫ぶことを選びました。 きっと、イエスは洗礼者聖ヨハネのことを念頭に置いて「聞く耳のある者は、聞きなさい。」(参照:マタイ1115)と言われたのでしょう。

 洗礼者ヨハネは私たちを神の神秘に導き、イエスがすぐ近くにいることを喜んで告げます。「主にあって喜びなさい。いつも喜びなさい。主は近くにおられます」と聖パウロも言います。私たちは今日の詩篇で、救い主の母として選ばれたマリアの喜びを宣言しました。今日、私たちは信仰によって神の子となったので、母マリアの喜びを自分たちのものとしています。マリアと共に、私たちは真実をめて次のように歌うことができます。「わたしの魂は主にあって喜びおどり、わたしの霊は救い主なる神を喜びたたえます。力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから」と。

 マリアのこの言葉が私たちの心に深く浸透し、私たちの中で具体的になりますように。 クリスマスに向かう途中で、洗礼者ヨハネのように、私たちが純朴な男性と女性でありながら、聖霊の喜びと力に満たされた真の光の証人となりましょう。 アーメン。

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       待降節第4主日  B  20231224日  グイノ・ジェラール神父

           2サムエル7,1-16      ローマ16,25-27     ルカ1,26-38

 神はダビデ王に自分の血統に属する後継者を約束していました。この後継者は神ご自身の息子であり、神が彼の父親であることもはっきりと説明しました。聖母マリアにおいて神の約束が完全に成就されました。天使ガブリエルがマリアに「主はマリアから生まれるべき子にダビデの王座を与え、その子が永遠に統治するであろう」と告げたとき、大天使ガブリエルはただ神の名において、昔ダビデ王と交わした約束の成就を発表しただけです。

 このように、預言者ナタンが宣言した預言と天使ガブリエルの言葉は、神が人類の歴史の中で常に働いておられることを示しています。それはまた、私たち自身の歴史の中神の臨在に気づくように私たちを招きます。長い間沈黙に包まれていましたが、今私たちに明らかにされる神の臨在のこの神秘について聖パウロは今日語っています。 実際、神の沈黙は私たちの中に信仰の道を開き、私たちの希望を強めます。

 もちろん、私たちは神がより頻繁に、そしてより具体的にすべての疑いを払って、栄光に包まれてご自身を現わして下さることを望んでいます。しかし、神はご自身を現されるときも謙虚さを保たれます。そういう訳で、神はモーセの前で、藪を焼き尽くすことのない火として自分自身を示します。 預言者エリヤの前ではそよ風のように近づき、洗礼者ヨハネの前では空が裂けて一羽の鳩を現し、クリスマスには神は子どものようにご自身を現します。このように、神は非常に単純な姿で私たちの歴史の中に現れますが、残念なことに、それを発見する方法がわからないことがよくあります。

  神は過去と同様に今日も絶えずご自分の民イスラエル、キリストの教会、私たちの家族、友人そして特に私たち一人ひとりを訪れておられます。なぜなら、神は私たちが神を父と呼び、私たちが彼の最愛の子どもたちであることを知っておられるからです。だから、イエスが私たちの内に生まれる必要があります。私たち一人ひとりが、神聖な命の芽を受け入れ、神の言葉が肉体を持つ住まいとなるように招かれています。

 ここに神の啓示があります。キリスト教の信仰にその強さと尽きることのない独創性を与えているのは、ただ神だけです。ナザレのイエスのおかげで、神は人の顔を持っています。かつて、神はナザレのイエスとなりました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(参照:ヨハネ14, 9)とイエスは言いました。その後、イエスは聖体において自分を受け入れる人、神の言葉を自分の中に働かせることを承諾する人の顔を借りておられます。

クリスマスにイエスは私たちの人生に来られます。それは私たちをご自分の体の部分とするため、そして私たちを救うためです。ですから、母マリアのように、へりくだって、信頼をもって父なる神にこう言いましょう。「主よ、お言葉通り、この身になりますように」。アーメン。


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                     四旬節

   四旬節第1主日 B年  2024218日   グイノ・ジェラール神父

        創世記9, 8-15     1 ペトロ 3, 18-22    マルコ 1, 12-15

 今日の第1朗読では、神が洪水から救われた新しい人類の父であるノアと結ばれた平和の契約を紹介しています。神は人間に正しい道から外れないようにあらゆる手段を与えると約束しています。私たちの問題に関わりたいという神の望みを発見して喜びましょう。神の約束の目に見えるしるしである7色の虹は、私たちが損なう危険があるものを新たにし修復するために神があらゆる手段を講じてくださることを教えてくれます。神のこの気遣いは、すべての生き物と宇宙全体に及んでいます


 第1朗読に続く詩編はノアに対する約束を思い出させます。「主よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。神への小道は慈しみと誠に溢れる」。神が私たちを愛してくださっていることを知り、信じることは回心と霊的進歩の源です聖ペロはキリストの復活を参考にして、ノアの物語を思い出します。イエスは神の約束を実現したお方です。彼は罪を犯した者たちが命を得るために、亡くなり復活によって宇宙全体を新しくしました。私たちの希望は、「は死に打ち勝った。キリストの十字架は地獄を克服しました」(参照:2テモテ 1,10 、ヘブライ人への手紙 2,14)ということを知ることです。

  聖マルコはイエスの誘惑について非常に簡潔に語っていますが、この誘惑は神への信頼に関するものです。本当の誘惑は、神との絶え間ない繋がりの欠如のために、もう信じなくなること、または私たちの中の信仰を死なせてしまうことです。イエスは砂漠で、世界に解き放たれた悪の勢力を打ち破りました。そして砂漠には花が咲き始めました。イエスは野獣や天使たちと一緒にいたと聖マルコは言っています。飼いならされた野生動物たちは、キリストという完璧な人によって平和にされる宇宙の調和を期待しています。天使たちは、新しいアダムであり、父なる神の僕であるイエスに仕えます。 イエスにおいて、人間と宇宙は神と和解し始め、天と地は再び一つになります。

 聖マルコはイザヤの預言を引用して、私たちに次のことを思い起こさせます。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴にたわむれ、幼子は蝮の巣に手を入れる」(参照:イザヤ 116-9) と。イエスは万物の調和を回復させます。神は人間と被造物、人間同士、そして人間と神を和解させるために来られました。この調和を完全に実現するために、イエスが私たちを真の逆転へと招いています。「悔い改めて福音を信じなさい」。聖ペロはまた、正しい良心をもって神に身を委ね、それによってキリストの復活に参加するよう私たちに勧めています。

 これで、復活祭への道は明確になりました。ノアに対する神の約束に信頼を置き、そして私たちの救いと命であるキリストに希望を置くことは私たち一人ひとりにかかっているのです。アーメン。

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    四旬節第2主日 B 年   2024225日    グイノ・ジェラール神父

        創世記22,1-29-1315-18     ローマ 8,31-34     マルコ 9,2-10

 創世記の物語は私たちを恐怖に陥れる可能性があります。神が子どもの犠牲(いけにえ)を求めるなんて、なんと大胆なことでしょう。それを理解するには、アブラハムの時代に生きていた人々の考え方を知る必要があります。アブラハムが生きていた時代は、豊かな祝福を得るために自分の長子を神々に捧げる習慣がありました。かつて神々への祈りとして日本で行われていた「人柱」とは、ダム、橋、城などの大きな建物の下や近くに、生き埋めにされた人々を人身御供(ひとみごくう)として捧げる伝統的な儀式でした。それはこれらの造った建物が自然災害によって破壊されないためでした。

 ヘブライ語の本文では古代の神々の名前を借りて、神を「エロイム」と名付けましたが、今の箇所の物語の最後では、神は「YHWH・ヤーェ」と名付けられています。イスラエルの神になるヤーェは「殺してはならない」という掟をモーセに与えた「命の神」ですから。アブラハムの父親は偶像を礼拝していました(参照;ヨシュア記24,2)。彼は息子に自分の信仰とそれが伝える伝統と儀式を教えたので、アブラハムは神が自分の息子イクの犠牲を要求することが当たり前だと考えたのかもしれません。しかし運命の瞬間、唯一であり、真の神であるヤーウェがアブラハムの腕を止めました。そのときアブラハムは、神はご自分に似せて造られた人間の死を望まれていないことを理解しました。なぜなら神は命の神ですから。そこで神は人間の犠牲を動物の犠牲に置き換えました。したがって、イサクの代わりに雄羊が犠牲として神に捧げられました。

 しかし、聖パウロはローマ人への手紙の中で次のように述べています。「神はご自身の御子のいけにえを拒まれませんでした」と。実に、イエスを犠牲にしたのは神ではなく、無責任と政治的宗教的利益が混ざり合った非常に人間的なものでした。神は御子を私たちに与えることによって、私たちにすべてを与えてくださいました。

 アブラハムとイサクは神が示した山に登り、命の神に出会いました。モーセと預言者エリヤはシナイ山に登り、自分の民を解放し、律法と契約を与え、約束をすべて果たされる神に出会いました。タボル山でイエスと弟子たちは、愛情深い父としてご自身を啓示される神に出会いました。イエスの変容を見た弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスを通して神が人類に与えた賜物の最初の証人になりました。

 イエスは父なる神と同じように、豊かな命を与えてくださいます。十字架上で、屠られた神の子羊であるイエスは、何も惜しまずに、無償で、全人類のために自分の命を捧げました。イエスは死をご自身の命に統合し、すべての人にとって永遠の命の源となりました。この命は死と罪に打ち勝ちそれらを滅ぼしたので、多くの人がこの命を受けることになりイエスは大いに喜びます。この命は復活祭の喜びを豊かに与えてくれます。ですから、私たちは父なる神のアドバイスに従い、イエスの言葉に耳を傾けましょう。イエスの言葉は命と永遠の喜びの泉でもあるからです。


 イエスの言葉に耳を傾けることによって、私たちは必ず父なる神に出会うことができます。そして「私たちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8,38-39)。私たちはそれを信じますか、そしてそれを望みますか。もし私たちの答えが「はい」であれば、神の愛が私たちを変え、救ってくださいます。アーメン。

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        四旬節第3主日 B 202433日   グイノ・ジェラール神父

         出エジプト 20, 1-17   1 コリント1, 22-25   ヨハネ2, 13-25


 最初の朗読では、モーセが受けた十戒のリストが示されました。 このリストは神がご自分の民のためにしてくださったことすべてを思い出すことから始まります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国から、奴隷の家から導き出した神である」と。ご自分の民に有利な神の行動は、モーセに与えられた律法の基礎です。 奴隷制から解放されたので、十戒は神に対して、そして同時に神が選ばれ解放された民の一人ひとりの人に対して尊敬と尊重をするよう勧めています。

 エルサレムの神殿で商売をしている人々の羊や牛、鳩を追い出すことによってイエスは神と人々に対するこの敬意を要求しました。イエスはロープで作った鞭を振りかざし、預言的な身振りをします。 このイエスの行為は神の怒りを表しています。神は、もはやご自分の神殿で尊敬されていませんし、神殿に祈りに来た巡礼者たちにも尊重されていません。イエスは神殿での不正な金銭の取引や密売を認めません。メシアが来られるとき「その日には、万の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(参照:カリア14, 21)と預言者カリアはかつて忠告しました。

 イエスは、エルサレムの神殿は「ご自分の父の家です」とはっきり言いました。これを肯定することによって、イエスは父なる神と自分の親密な関係を明らかにしています。 そして、まさにこのユニークな関係こそが、イエスの神秘的な言葉に意味を与えているのです。「この神殿を壊してみよ。三日でたて直してみせる」と、イエスはこのように言って、自分の死と復活を告げます。人間の間における神の臨在の真の神殿は、受肉した神の言葉であるイエスご自身です。つまり目に見えるキリストの人間性です。イエスの言われる神殿とは、「ご自分の体のことだった」と聖ヨハネは説明しました。

  信仰によって、私たちは神の子となり、またこれから以後は私たちの体が神の神殿となりました。 ここは神がお住みになりたい場所です。ところが残念なことに、この新しい神殿はしばしば騒音や興奮によって乱雑になっています。そういう理由で、イエスがエルサレムの神殿に入られたように、いつか私たちの生活に登場されるでしょう。 彼は神を第一にしないものすべてを打ち倒すでしょう。特に、イエスは私たちが離したくないものを揺るがすでしょう。 イエスは戻ってきて私たちにもう一度言われたことを繰り返すでしょう。つまり、私たちの人生において神を第一に置かれなければならないこと、また、私たちが神の愛を歓迎し、この愛によって自分自身が変えられなければならないことを告げるでしょう。

 私たちの心を変えるために毎週日曜日に聞く神の言葉は、イエスがエルサレムの神殿で用いられたあの「縄の鞭」のようなものです。主は私たちの執着を取り除くために来られます。人の心に神がいなければ幸福はありません。また、他の人々への敬意や隣人への愛がなければ幸福は決してないとイエスは私たちに納得させたいのです。実際、私たちの人生に神の居場所がなければ、そこには他の人への居場所もありません。

 この四旬節に、私たちは回心への願いを神に委ねましょう。神ご自身と私たちを取り囲んで見守っている人たちへの尊敬と敬意を実現するために、与えられている神の戒めを実践する力を求めてみましょう。イエス・キリストは私たちを罪と死の奴隷状態から解放しました。私たちが神を愛することで自由になりました。と言うのも、私たちが神の存在の聖なる神殿とし、また神の愛する子供たちとしてこの世に生きるためです。アーメン。

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      四旬節第4主日  B年  2024310日  グイノ・ジェラール神父

         歴代誌下36,14-1619-23  エフェソ 2,4-10  ヨハネ 3,14-21

 ヨハネによる福音の本文を説明するのは簡単ではありません。この箇所は実際にはイエスの十字架の前での黙想のようです。この福音の箇所は、罪人である私たちに対する愛に満ちた神の心を明らかにしようとしています。この愛は私たちを光の中に引き込み、救おうとしています。「神は独り子をお与えになったほどに世を愛されました」と聖ヨハネは私たちに説明しています。

 イエスという名前は「神は救う(神は救い)」という意味です。イエスが自分の救い主だと信じる人は、裁きを恐れる必要はありません。信じない人だけが、神の愛と赦しで私たちを覆ってくださる方を信じていないので、すでに裁かれています。

 イエスの十字架は、モーセの時代の青銅の蛇のように、私たちを死から命へと導きます。神の愛は、私たちを罪と死から癒すために十字架に釘付けにされたのです。悪と死に直面した神は、イエスにおいて、私たちにご自身の命、永遠の命を与えるために死ぬことに同意されました。「永遠の命とは、神が遣わされた方を信じることです」(参照:ヨハネ17,3)と、イエスは言われました。イエスの十字架は世界を神の光の中に引き込みます。この光はすべてを裸にし、何かを隠す暗い隅を残しません。輝く十字架の光は嘘と偽善を追い払います。

 しかし、仮面を剥がされたくない人が、光よりも闇を好む可能性は常にあります。私たちは神の愛に値するためには努力が必要であると信じているのではないでしょうか。神を裁判官とみなし、自分の欠点や過ち、罪が神の光によって明らかにされるのではないかと恐れています。十字架の前の聖ヨハネの瞑想がかなり厳しいのはこのためです。聖ヨハネにとって、信じることは存在全体に関わる大切な決断です。信じること、それは表面的な存在からより深い存在へと移行することです。信じるということは真理の道を辿ることであり、まことの命に賛成か反対かを選択することです。

  神は愛であるからこそ、私たちがまったく疑わずに信じることに同意することを神は期待しています。 私たちが救われ、神の内に永遠に生きることが出来るように、神はあらゆることをしてくださいました。神は人形やロボットを創造したのではなく、自由な人間を創造しました。光を望まない人は単に独自の装置や機械に任せられるだけです。しかし、「真理を行う者は光の方に来ます」。信仰に生きる人はすでに永遠の命の光の中にいます。信仰によって悪の力に対する神の闘いに参加する人、不幸の力が勝利を収めることはないと信じる人は、すでに永遠の光を浴びています。


これは聖ヨハネが福音を通して私たちに告げる良い知らせです。復活祭に向かっている私たちは、十字架に上げられたキリストのうちに現される命の光を見ようではありませんか。そしてこの光が、私たちの心の暗闇にまだ包まれているものをすべて照らすように主に願いましょう。アーメン。

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         四旬節第5主日  B 年  2024317日   グイノ・ジェラール神父

          エレミヤ 31, 31-34      ヘブライ 5, 7-9      ヨハネ 12, 20-33

 今日、聖パウロと聖ヨハネは、イエスの苦しみと嘆願の祈りについて私たちに語ります。これらの苦しみは、神がご自分の契約を私たちの心に刻むために必要でした。

 神の契約は、私たちを神ご自身の心と親密に結び付ける愛、赦し、救いの契約です。 神が私たちと同じ人間になったので、私たちは神の神性と永遠の命に与る恵みを得ました。キリストの苦しみがなければ、これは不可能でした

 聖パウロは聖ヨハネの福音書の個所を一つの文に要約することができました。「キリストは神の子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と。それをくとただちに、私たちはイエスの十字架の前に置かれています。この十字架は、キリスト教において最も受け入れがたいものです。いくら、十字架をペンダントとしてあるいは芸術作品や宝石に変えたとしても、イエスの十字架は依然としてスキャンダルであり、躓きです。イエスは、罪のない人であったのに、耐え難い非人間的な苦しみの中で死ぬことによって、罪と神の拒絶がどれほど人間を傷つけ、悪の深みに導くかを私たちに示しています。

 イエスも私たちにそのことを教えています。「誰かのために自分の命を失う人は、それを保って、永遠の命に至る」と。 私たちのすべての不従順を贖うために、イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(参照:ピリピ2,8)と聖パウロは私たちに思い起こさせます。 恐ろしい苦しみを乗り越えたイエスのこの従順は、私たちに命の扉を開き、神の赦しを与えてくれました。 これこそ私たちが十字架の道行きを行い、瞑想し、理解しようとすることです。苦しみはスキャンダルですが、イエスご自身は苦しみを説明しませんでした。ポール・クローデルがよく言っているように、「イエスは苦しみを説明するために来られるのではなく、ご自身の存在で苦しみを埋めるために来られるのです」。

 イエスにとっても神にとっても、この苦しみの選択は滅びへの道ではなく、実を結ぶために必要な唯一の道です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と。 神の苦しみは死への招きではなく、回心への招きです。人を惑わせるこの招きは、私たちに次のことを思い出させます。「与える者は受け取る。自分の命を失った者はそれを守ります」(参照:マルコ 8,35)と。


 苦しみと死を経験することによって、イエスは十字架を受け取って同時に全人類を背負いました。それは全ての人を神のいのちに導き入れるためでした。だからこそ、イエスはあえて私たちにこう言われるのです。「わたしの弟子になりたい人は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(参照:マタイ16,24)、そして「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(参照:ヨハネ12,26) と。神から大切されることは神の神性にあずかることであり、神のいのちを分かち合うことです。 これは教会の教父たちが繰り返していることです。 「神が人となったのは、人が神となるためである」と。

 十字架は確かにスキャンダルですが、何よりも想像を絶する栄光です。というのも「この世の支配者」サタンとすべての悪の勢力に対する完全な勝利です。十字架上でイエスの死は、全世界の救いをもたらし、永遠の命へ導き、すべての人に与えられている終わりのない幸福です。私たちがそれを信じるなら、私たちの周囲にそれを宣言しましょう。そして、私たちの救い主、あがない主であるキリストの復活の祝日を、喜びをもって迎えましょう。アーメン。


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        枝の主日(受難の主日) B年  2024324日   グイノ・ジェラール神父

 
             イザヤ 50,4-7     フィリピ 2,6-11     マルコ 14,1-1547

 イエスは生涯をかけて人々を癒し、彼らに命を与えました。ユダヤ人にとって、罪は病気を引き起こし、病気は死をもたらします。病気と罪は死に結びついていると彼らは信じていました。確かに、命は身体的かつ霊的な健康を与え、魂と体の健康を与えます。イエスは命の満ちあふれる方であるからこそ、病気の人々を癒すことを決してやめないのです。イエスは、私たち一人ひとりを死に導く人類の悪と罪を自ら引き受けます。イエスは私たちのために命を捧げることで私たちを死から救い、その代わりに永遠の命を与えてくださいます。

 ミサ祭儀の時に私たちはそれを祝っています。そうです、「イエス・キリストは父なる神の栄光の主です」(参照:フィリピ2,11)。御父への限りない愛に忠実であり、人々への限りない愛に忠実であるイエスは、私たちにご自分の命を与えてくださいました。受難の最中に彼に降りかかった暴力のスパイラルに直面しても、イエスは最後まで愛し、そして終わりまで愛し続けるお方です。受難の時、皆が集まってイエスの命を奪おうとしますが、イエスは人々が奪いたいものをすでに与えてくれました。確かに、最後の晩餐の聖木曜日、イエスはすべてを完全に与えました。「皆のためにわたされたご自分の体と大勢の人々のために流されたご自分の血を」イエスは与え尽くしました。この最初のミサ祭儀である晩餐を通して、イエスは数日前に敵に対して言われたことを成就されました。「誰もわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(参照:ヨハネ10,18)と。

 私たちはイエス・キリストから何も奪うことができません。奪うものは何もなかったからです。すべてはすでに与えられており、すべては前もって与えられ、前もって救われています。イエスは、ご自分の命が奪われないように、ご自分の命を捧げることで、ご自身も、そして私たちも憎しみの支配や暴力の支配から解放してくださいます。 イエスは愛によって私たちを救ってくださいます。イエスは愛の勝利を示します。「父よ、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と。神は、イエスを通して憎しみ、不幸、死が愛の炎で焼き尽くされ、命が豊かに溢れることを望んでいます。神は人類を覆っている嘆きと悲しみのベールが引き裂かれることを望んでいます。 神はすべての人が生かされ、新しくされ、変容されることを望んでおられます。

 受難の時、苦しみ、軽蔑、憎しみの深淵に陥ったイエスは命の泉であることを現し続けました。イエスの死そのものさえが、新たな世界を創造する「命の萌芽(ほうが)」です。イエスと結ばれている私たちはキリストの働きを続け、命の実を結ぶように召されています。ミサ祭儀の聖変化の奉献の言葉は、キリストの業を実行するよう私たちに勧めています「これをわたしの記念として行いなさい」と。

 ミサ祭儀に与かる度に私たちは受難の神秘、豊かに与えられた命の神秘、永遠の命の泉である神の愛の神秘を祝います。キリストの受難について黙想する人は、ご自身が創造された人間を、神がその人間のために死ぬほど尊敬し、愛していることが分かります。イエスが人間として生きたのは、最後まで人生に起こるすべての結果を引き受けることになるためでした。今日から始まる受難のドラマは、愛の限界を超えた愛によってのみ説明できます。この愛は私たちに復活の恵みを与え、神の命そのものである完全な愛の賜物を私たちの中に置きます。この聖週間で、このことについて神に感謝しつつ、真剣に考えてみましょう。 アーメン。

                       
  聖週間

       聖木曜日 B年 主の晩餐  2024328日   グイノ・ジェラール神父

        出エジプト12,1-811-14    1コリント11,23-26    ヨハヨハ13,1-15

 「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(参照:ルカ7,15)とイエスは弟子たちに打ち明けました。イエスは今夜私たちにこの言葉を繰り返してくださいます。 イエスは私たちと一緒に留まることを望んでおられます。 しかし、私たちは少しでも彼と一緒にいたいという望みを持っているでしょうか? 確かに今夜、私たちは、キリストと共に世界を救うユニークな出来事を祝っています。

 ミサ祭儀は「すべてのキリスト者の生活とすべての福音宣教の源であり頂点である」と第二バチカン公会議は私たちに教えています。 イエス・キリストを信じる私たちの信仰は、ミサの泉から汲み上げてこの頂上に登ることを義務付けています。 残念なことに、これを真剣に信じていない多くの人がいます。 また、無駄な理由や怠惰から、私たちがミサ祭儀を簡単に省いてしまうことについても考えてみましょう。

 主の晩餐は、キリストを生活の中心に据えるように私たちを招きます。ミサ祭儀は私たちを神と親密に結びつける尽きることのない愛の泉であり、それは私たち自身が愛の源となるためです。 私たちはミサ祭儀において主から受け取ったこの愛を周囲の人々に放射しなければなりません。

 人類を罪と死から救い、人類を愛で満たすために、イエスは十字架で死にました。 イエスは司祭を選んで、彼らがご自分の代わりに晩餐を記念し、祝うように制定しました。司祭が晩餐の時にイエスの言葉を繰り返すと、途端にイエスはその場に立ち会われ、信徒の一人ひとりにご自身を渡します。 このようにしてイエスは、ご自分と御父との間に存在するこの親密な関係に私たちを導かれます。 このようにしてイエスは私たちの中に神への飢え渇きを増大させてくださいます。

 信頼することによって私たちはその信頼を深めます。愛することによって私たちの中に愛が育まれます。 神の愛が私たちを包み込み、今夜私たち一人ひとりに豊かに与えられています。 今夜、私たちの共同体が感謝の気持ちを持って、神の愛の贈り物であるミサ祭儀を歓迎し、尊重るように祈りましょう。 神の祝福と豊かな愛を世界に注ぐために主が選んで遣わしてくださった司祭たちのために特に神に感謝しましょう。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(参照:ローマ5,5)という事実をよく思い出しましょう。 アーメン。

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       聖金曜日 主の受難  B年  2024329日  グイノ・ジェラール神父
          イザヤ52,13-53,12     ヘブライ4,14-165,7-9     ヨハネ18,1-19,42

 私たちに対する神の無限の愛の神秘を理解するために、キリストの受難について私たちは、今夜、黙想しています。自分の息子の十字架の近くに立つ聖母マリアに私たちの心を整えてくださるように願っています。それは私たちが十字架の神秘を尊敬のうちに迎え入れるためです。また、聖霊に私たちが罪に対する心からの悔い改めと全人類の救いを渇望するよう願っています。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(参照:マタイ27,46)とイエスは十字架の上から叫びました。神は決してご自分の息子を見捨てられませんでした。しかし、イエスは詩編 22編の言葉を引用し、苦しみと死に直面している全人類の失望を神に叫びました。家族に囲まれながらも、苦しみ、自分が死ぬことを知っている人は、常に孤独を感じ、自分自身見捨てられたと感じます。人類の悪をすべて引き受け、背負っていたイエスは、苦しみに対する人々の無力さと死に直面する恐れと耐えがたい苦悩を神に叫びました。

 エスはいつも父なる神と共におられ、彼はそのことを私たちに事前に確認してくださいました。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」 (参照:ヨハネ28,29)と。イエスの十字架上の死は神にとって喜ばしいことです。なぜなら、イエスは十字架上でご自分からすべてのものを剥ぎ取ったからです。ご自分の母マリアもお気に入りの弟子であるヨハネに与えてくださいました。イエスの死は神を喜ばせる完璧な捧げ物です。この痛ましいユニークなご自分自身の奉献は、世界を救い、人々に神の赦しと永遠の命を与えてくださいました。

 十字架の神秘は私たち一人ひとりに関係しており、たとえこの出来事が歴史のある瞬間に記録されたとしても、それは時間を超えています。神のご意志によるイエスの死は、私たちを無気力の状態から目覚めさせ、私たちに対するイエスの溢れるばかりの愛を理解させるに違いありません。ヘブライ人への手紙が私たちに説明しているように、十字架は希望の泉です。なぜなら、十字架のおかげで、いつか私たちは永遠の平和と喜びの中で神と再会できるからです。キリストの十字架というこの偉大な神秘の前に、私たちにできることは、沈黙のうちに感謝を捧げ、長く礼拝することだけです。 アーメン。

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      聖土曜日  B年  2024330日   グイノ・ジェラール神父

                   ローマ6,3-11       マルコ 16,1-8

 マルコによる福音書の最後の節は、キリストの墓に来た三人の女性の恐怖と逃亡を報告しています。 この結論は初代教会の信徒たちにとって奇妙に思われたので、後に誰かが、復活されたイエスの出現を詳述(しょうじゅつ)する9節から20節という新たな結論を追加しました。

 しかしマルコは、恐怖とパニック状態の中で福音を終わらせることで自分が何をしているのかをよく知っていました。 神の現れに直面すると、人間は常に恐怖と強いおびえを経験します。神の前では人は深く動揺し、刺激されます。 キリストの復活は、神からの極めて強力な啓示です。

 神は罪と死を克服されました。 この力は、神が聖体拝領のたびに私たちに与えてくださるものです。 復活のろうそくが、今ここで灯されて輝いているのは、復活されたイエスが私たちの間におられ、私たちに命と神聖な永遠の命を与えてくださっていることを思い出させるためです。 聖霊降臨までの50日間、私たちは永遠の命を手の届くところに置き、イエスが私たちの心に住まわれて復活されている出来事を祝っています。

 今日、私たちの心を満たしているのは恐怖ではなく喜びです。従ってそのことが、私たちがアレルヤを歌う理由です。私たちは手に小さなろうそくを持ち、洗礼のときに交わした約束を新たにすることによって信仰を宣言します。イエスは命の光です。彼こそは私たちの命です。 イエスは救いの光です。彼こそは私たちの救いです。心から神に感謝しながら、復活の光の中を共に歩みましょう。

 一緒に明るいキリス者、幸せで輝くキリスト者、私たちを生かしている神の命の光り輝く証人になりましょう。 イエスは本当に復活されました、ハレルヤ! 彼に栄光と力が世々限りなくありますように。 アーメン。

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